「コンビニ人間」を読み終えました。酔っぱらった頭で、小説の文脈を大きく離れた個人の印象を書きますので、ネタバレの心配は無用です。
一言で「同化圧」、これがテーマ。生れてこのかた、同化圧の下で生きていることを見事に描いた小説です。
日頃、呼吸をしている大気も、大気の層をすべて支えている気圧を考えればとんでもない圧力ということになる。そんなことを露ほども意識せずに暮しているうちは平和だが、そうでなくその圧力をそのまま受けてしまったら圧死しかねない。主人公は不幸にして、圧力を肌で感じて女性だ。
幼いころから、周囲の子との違いを認知し、周囲と同化するための「人工的」な工夫を余儀無くされる。周囲にも似たように苦しむ人はいるのではないだろうか。ある人は、主人公と同様に人工的な工夫を積み重ねながら、強いストレスにも負けずに周囲に追い付く努力を努めながら同化を図る。そして、必死の思いで、自分の生きる場所を求める。
過去にはこういう人が生きる場所があちこちになったように思える。太古の昔にはシャーマンとして尊敬を集める立場にあったのかもしれない。それが産業化と都市化が進むにつれて、ヒトの規格化が進み、生息の場を狭められてしまったのではないだろうか。
その主人公が職場としてコンビニという超現代的な存在を選んでいるところが面白い。小説冒頭に記されている、主人公の身体に刻みこまれたコンビニの拍動とでもいうような行動の記述は圧巻だ。客の一挙手一投足から次を読み、キビキビと動く様子が数ページも記述され、読者は一気にこの風変りな主人公の世界、あっちの世界、に引き込まれる。
コンビニが採用する合理主義のなかで、従業員は没個性的にコンビニに仕え、コンビニを息づかせるために精密機械のように動く。そんな環境で女性は、コンビニとの調和、そして自らの尊厳を見つける。
彼女と同様に苦しむ別の人物は、逆に「普通の人」への同化を諦め、自らを孤高の存在と見たて、周囲を睥睨することで自らの価値を保つ。ただ、普通の人との相対性に価値を求める結果、普通の人に寄生せずには生きていけないというのは皮肉だ。
いつも同じ、どこでも同じ、コンビニがその実、常に新陳代謝を繰り返し、数週間もすると完全に中身を入れかえていることが何度も言及されている。このことは福岡伸一が「生物と無生物のあいだ」で語ったテーマとも似る。コンビニの商品が入れ替わり、季節ごとに新しい商品が表れ、同じように見えて、常に変化しているコンビニ。この超合理的な職場にあっても、そこでの行動原理は常に進化していく。そして、その世界で巧みに生き抜けることを女性は誇りとしてきた。
だが、普通の世界は彼女がそこに安住することを認めない。彼女がうまく生き、普通の世界に近づくにつれて、より強い同化圧が与えられる。同化圧は同化できないものには排他圧となり彼女を苦しめる。
現代社会を代表するコンビニでの、俗人性を排除した合理主義に救いを求める女性だが、そのコンビニも普通の社会を相手にしているという面では、彼女も先の男性と同様にある種の寄生なのかもしれない。そのことを強く意識し、脱皮することが彼女にとっての悟りのような気がする。
ここまでモヤモヤと書いたが、コンビニ人間は論説でも、現代批評でもなく、小説だ。それも一級の。それでいて、普通の人たちとそこから漏れた人たちの境目を考えずにはいられない。小説ではある種の発達障害の人を描いているように思える。でも、男のくせに、女のくせに、いい大人のくせに、日本人のくせに、などなどという壁をつきつけられていくうちに、どこかしら誰しも普通の人から取り零されていることに気づくのではないだろうか。コンビニだけでなく、日常の定型業務をきっちりと熟すことで、やっと自己を保っている人も少なくないだろう。そして、その場を支配するルールがいつかは変わってしまうこと、いつかは強制的に排除される不安は、しばらく前に紹介した「終わった人」にも通じるかもしれない。
頭のなかが散漫でうまくまとめられないことがもどかしい。やっとの思いで「いろんなことを深く考えさせられる小説だ」とまとめるしかないのが情けない。